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代表挨拶

全国数ある畳屋さんの中から、当店のホームページをご覧いただき誠にありがとうございます。
当店であります安藤畳店は、大正5年、初代長島牛蔵(ながしまうしぞう)が立川の地にて創業いたしました。聞くところによりますと、当時は20人位の若い衆が、買ってきたワラをみんなで踏んで畳床にして、それを畳に製造して販売していたそうです。初代長島牛蔵に子供がいなかったため、当時の一番弟子であった私の祖父の安藤常蔵が二代目として跡を継ぐことになりました。
余計な話ですが、ちなみに長島牛蔵は祖母の親戚筋ですので、名字は

四代目 安藤永一写真

4代目 安藤永一

創業者 長島牛蔵写真

創業者 長島牛蔵

2代目 安藤常蔵写真

2代目 安藤常蔵

3代目 安藤徳長写真

3代目 安藤徳長

違いますが血縁者であります。事業をスタートした場所は、今の立川センタービルの辺りの曙町2丁目だったりします。
その後時代は推移し、三代目の父安藤徳長の代になり、四代目の私が生まれた昭和40年に法人化し、現在の有限会社安藤畳店になりました。
その40年代の高度経済成長からバブル景気までの頃は、畳屋としては異例の常に職人が5~6人常駐していて、いつも夜なべをしているほど忙しかったと聞いておりますが、その時に今の場所に土地・建物を取得し、現在も同じその場所で仕事を行っております。その後もちろんバブルは弾けて、失われた20年と言われる時代が始まりましたが、そんな状況の中、私が四代目として跡目を継ぎ現在に至っております。
さて畳屋稼業ですが、時代の移り変わり、そして人々のライフスタイルの洋風化なので畳の数は年々減少していく状況にございますが、当店はおかげさまで食いっぱぐれることもなく、毎年毎年それなりに忙しくさせていただき大変ありがたいと思っております。
また、畳の数が減っていっているこの状況を「危機」ではなく、ある意味「機会」と捉え、強いもの・良いものだけが生き残るのではなく、変化に対応したものが生き残るということを意識しております。
ですので、例えばカラーの畳であるとか、バリアフリーに対応した15ミリ位の薄い畳であるとか、また介護に対応した、素材が和紙やポリプロピレン樹脂でできている畳なども状況により積極的にご提案させていただいております。
残すべき伝統は残し、そして時代の要請に応じた様々な変化に富んだ商品も積極的にご提案していきたいと思っております。

あとですね、完全なる余談ですが、私安藤永一のご紹介をさせていただきますと、私安藤永一は、昭和40年4月24日安藤畳店三代目父安藤徳永と光子の間の3人息子の次男坊として誕生いたしました。
長男は徳和、三男は良己という名で、何故か私は次男なのに「永一」と名付けられましたが未だに理由は不明です(笑)
生まれも育ちも、そして最終的には勤務地も立川で、気づけば生まれてからずっと立川にいます。父は長男なので実家が本家になり、母は砂川一番の天王橋が実家で、母の実家には同じ年の従妹がいて、しょっちゅう遊びに行っていたので盆暮れに親の実家に帰省するという感覚が全くありません。結婚する時に奥さんの両親に大反対されて、ちょっと駆け落ちみたいな事をして移り住んだ先が精々錦町6丁目辺りです。しかもウチの奥さんは近所のバイク屋さんの娘でして、ウチの息子は父親の実家が立川市富士見町2丁目12番地、母親の実家が立川市富士見町2丁目15番地となり、私の自宅が立川市富士見町4丁目なので、私よりも更にコンパクトな範囲に収まっていて、小さい頃はほぼ毎日、帰省しているような状態でした。
ふと気づけば、今も昔も気づけばずっと立川なんですね。幸か不幸か、全く立川から出る気がありません(笑)。あまり意識はしていなかったのですが、立川という街が本当に好きなんだと思います。
ということで、地元立川の保育園、小学校、中学校を経て法政一高、法政大学に進みました。元々スポーツが好きで、小中学校の時は暇があれば野球をしていたのですが、高校からは専ら帰宅部専門になりまして、ここから基本的に社会人になるまでは、チャラチャラした情けない話のオンパレードの話になりますので、お話を割愛させていただきます。
そんなこんなで、昭和63年、世間はバブル景気に沸いている最中、何とか大学を卒業し、

様々な事情が絡み合い安藤畳店に就職いたしました。バブル景気なので、世の中は空前の売り手市場で、同級生たちもビックリするような企業から内定をもらっていたり、新卒の初任給が過去最高というニュースが流れている最中、夢と希望を持って安藤畳店に就職をしたわけですが、父である社長に「ところでオレの給料はいくらになるんだい?」と聞いてみたところ、「バカ野郎、お前にはこれから仕事を教えてやるんだから、こっちが金もらいたいくらいだ!」と言われ、結局アルバイト代程度の給料からスタートすることになり、いきなり思惑は外れ、まずは社会人の洗礼を浴びたということを記憶しております(笑)

そんなこんなでスタートした職人の世界ですが、職人の世界では、仕事は教わるものではなくて、見たり聞いたりして盗みながら身につけていくものなのです。職人の世界に入るのが年齢的にも遅いと自覚をしていたのもあり、早く一人前になりたい焦りや苛立ちの中、技術は覚えられない、給料は上がらない、朝から晩まで些細なことで怒られたり、文句を言われたりする毎日が続くと、当たり前ではありますが、まぁ仕事が嫌になってきます。1年経ち、2年目くらいになるとやる気がなくなって、もう仕事が嫌で嫌で毎日毎日辞めることばかり考えていました。でも「石の上にも三年」と申します。ですので、3年経つまでは踏ん張り、3年経ったら辞めようと決意していたりしました。
そんな時に転機が訪れます。やる気を無くしている私を見かねた母から、畳の職業学校に行ってみないか?と言われたのです。
あと1年で辞めるつもりではありましたが、片足くらいですけど乗りかかった船でしたし、週一回仕事がサボれるしというのもありまして、まぁいいか位の気持ちで入学いたしました。
入学すると、私を含め11人の同期生が居て、基本的にはみんなと同じように畳屋のせがればかりでした。
彼らとの出合いがこれまでの私の腐った考え方を劇的に変えていきます。
一番の年長者でもありましたし、私より若く、生意気盛りの彼らをまとめるためにも、常に成績はトップでいようと決め、努力しました。その思いが実ってか、非常にチームワークの良い11人となり、3年間誰も辞めることなく全員が無事に揃って卒業することができました。また在学中、いろいろな職方の作品展があり、通常学年からは一人か二人位しか出展できないのですが、私は毎年出品することができました。
この学校に行った事により劇的に仕事に対する考え方、取り組み方が変わった私は、仕事に対して常に前向きになりました。考え方が変われば技術も隙あらば見たり、聞いたりして盗みながらドンドン身に付いてきます。ぶつかり合いながらも父に対して意見を言うようになります。ようやく仕事とは何か?という事が分かってくるようになってきたのです。
卒業後、二級技能士の試験に合格し、その数年後にはさらに経験を積み重ね、見事一級技能士の試験に合格しました。また平成17年には父から代を継ぎ、代表取締役になり紆余曲折ありましたが、現在に至っております。

安藤畳店に入社し28年、そして跡を継ぎ、改めて今思うことは、建築材料の中で数少ない天然素材としてのい草の素晴らしさ、畳の素晴らしさと、私のような考えの甘かった半人前の若造を見捨てずに育ててくれた出会った人全ての人に感謝したいと思っております。

畳のヘリは漢字で書くと、この字「縁」と書き「縁(えん)」という字を書きます。気づけば私も畳と同じ、「縁」のみでここまでやってこれました。
安藤畳店はこれからも、お客様との「縁」を大事にしながら、「気持ち」や「心」を満たせるように精進していきます。

今後とも安藤畳店をよろしくお願い申し上げます。

平成26年2月20日

(有)安藤畳店 代表取締役

安藤永一


昭和の安藤畳店写真 訓練校仲間写真 親子三代写真
昭和の安藤畳店
訓練校仲間

中:4代目 安藤永一
右:現在の安藤徳長
左:息子 安藤大貴